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ナゾと推論21 誰が菊四郎を殺したのか

 日銀下関支店長 岩下直行

来週、2月14日はバレンタインデーだが、下関では「真木祭(まきさい)」が開催される日でもある。真木祭とは、幕末に下関で暗殺された勤皇の志士、真木菊四郎(まききくしろう)の命日に開催される墓前祭だ。菊四郎が遺言により葬られた赤間神宮裏の紅石山で、神事と琵琶・詩吟の奉納が行われる。

◆紅石山の真木菊四郎墓所

菊四郎の父は、久留米水天宮22代宮司の真木和泉(まきいずみ)で、幕末の尊王攘夷運動の理論的指導者として名高い。菊四郎は和泉の四男で、父の政治活動を支えるために奔走した。

菊四郎が歴史の舞台に登場するのは1862年2月、弱冠二十歳の時だ。和泉と菊四郎は久留米から薩摩経由で京都に上り、薩摩藩の尊攘激派とともに倒幕のための挙兵を計画するが、寺田屋騒動で頓挫し、久留米藩に送還されてしまう。

続く1863年、和泉と菊四郎は長州を経由して再び上京する。和泉は長州藩を中心とする尊攘激派の理論的支柱として、京都の政局をリードする存在となった。ところが、同年8月18日の政変により、長州藩は尊攘派公卿七人とともに京都を追われてしまう。世に言う七卿落ちである。菊四郎も七卿を警護して長州に移った。

1864年7月、失地回復を企図する長州藩は禁門の変を起こす。和泉は浪士隊を率いてこれに加わり、菊四郎も従軍した。しかし、薩摩、会津らの連合軍に敗れて長州軍は敗走、和泉は京都山崎の天王山で自害することになる。菊四郎もその後を追おうとするが、父に諭され、長州・下関に落ち延びる道を選択する。

長州に下った菊四郎は、亡き父の遺志を継ぎ、攘夷倒幕のための薩長連合を実現するために奔走していたが、1865年2月14日、下関で暗殺されてしまった。享年23歳、志士としての活動は僅か3年間であった。

菊四郎は誰に殺されたのだろうか。かつて作家の菊池寛は、「長州人も、真木菊四郎など、長州で十分保護しなければならない同志の人々を暗殺している。これらは俗論党のやったことだろうが、長州人としては責任のあることだ。」と書いた。

しかし、現在では、菊四郎暗殺の下手人は土佐脱藩浪士の池内蔵太(いけくらた)だと考えられている。内蔵太はNHKの大河ドラマ「龍馬伝」にも登場した坂本龍馬の幼なじみで、禁門の変に長州方として参加していたが、そこで自分達を苦しめた薩摩を憎悪する思いが強く、薩長連合を進めようとする菊四郎が許せなかったらしい。内蔵太はこの暗殺事件の後、長州を脱出して長崎の亀山社中に参加し、長崎県五島沖の水難事故で亡くなった。菊四郎と内蔵太はともに維新後顕彰され、両名とも従四位を追贈されている。

もしも、菊四郎が1865年に暗殺を免れていたら、そのわずか1年後の薩長盟約の成立を受けて、勤皇の志士としての彼の地位はより高まったことだろう。あるいは、彼こそが、龍馬に先駆けて、薩長連合に貢献した人物として歴史に大きく名前を残していたかもしれない。そんな想像を巡らしながら、墓前祭に参加させていただこうと思う。

(2011.2.9日 山口新聞掲載)

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