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辰野金吾が建てた日銀の建物

SNSでの会話から、日銀のどの建物が辰野金吾設計によるものか、ということを調べてみた。現存する日銀の建物のうち、本店旧館と大阪支店旧館のみが、辰野金吾の手によるものである。もっとも、日銀本店旧館は関東大震災で被災したのちに、辰野金吾の弟子、長野宇平次によって全面改装されている。日銀大阪支店旧館は、建物の外観のみを残して、中身は鉄筋コンクリートで建て替えられている。重要文化財指定を受けた日銀本店旧館は抜本的な改築はできないので、耐震性に課題があり、今は博物館として見学の対象となるだけだけれど、日銀大阪支店旧館は、会議室やイベントスペースとして活用されている。

この2つの建物は日銀の本支店として利用されているが、建物の文化財的価値を評価して他の目的に利用されているのが、旧日銀京都支店と旧日銀小樽支店である。各々、京都文化博物館別館、日本銀行旧小樽支店金融資料館として活用されている。

現存する辰野金吾による日銀の建築物はこの4つだけだが、辰野金吾は他にも日銀の支店の建築に深く関与していた。辰野金吾が関与した日銀の建物については、日銀金融研究所の企画展の資料「辰野金吾が手がけた日本銀行建築」に詳しい。以下に、その一部を転載する。

この資料で分かるように、辰野金吾は、上記4建築物以外にも、日銀の函館支店、福島支店、金沢支店、名古屋支店、広島支店、旧西部支店の6つに関わっているから、合計10箇所の建物を建てている(本店では、現存する本館以外にも、幾つかの分館を手がけているから、建物の数でいえば10を超える)。

このうち、北九州市門司港にあった旧西部支店は、戦災によって失われた。跡地はマンションになっている。マンションの外壁には、第24代日銀総裁、前川春雄の筆による、「日本銀行門司支店跡」の碑文が彫り込まれている。ただし、碑文で強調されている初代支店長高橋是清は、自らを「日銀馬関(下関)支店長」と自伝に表記し、実質的に下関側のみで活動していたこと、戦災後、昭和39年の北九州支店(小倉)開設までは、門司支店は廃され、門司事務所となっていたことなどを考えると、この碑文の内容にはやや疑問を感じる。元日銀下関支店長としては、この辺について色々と書いてきたが、下関側にも高橋是清を顕彰する石碑が建てられたのは、とてもよかったと思う。

広島市中区加古町にあった初代日銀広島支店は、1936年に中区袋町に移転し、辰野金吾の手による建物は取り壊されてしまったらしい。続く二代目の日銀広島支店は、原爆の爆心地近くにあって残った貴重な被爆建物で、現在は広島市が管理している。中区基町にある現在の日銀広島支店は3代目に当たる。

他の4支店(函館、福島、金沢、名古屋)は、日銀が場所を移さずに建て替えたため、辰野金吾設計の建物は取り壊されてしまったらしい。明治時代の洋風建築を積極的に残していこうという意識はかつてはさほど強くはなかったし、日銀の支店は銀行券の供給・回収などの業務を円滑に処理しなければならず、景観保護や文化財の維持といった意識よりも、日々の仕事が優先してしまったということだろう。

その意味では、京都と函館の旧日銀支店が残ったことは、とても意義があったと思う。旧日銀小樽支店は日銀自身が管理する金融資料館となり、地元観光の核となっている。旧日銀京都支店は京都文化博物館別館として様々なイベントに利用され、レストランなども併設された、洒落た一角となっている。