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ナゾと推論16 お札になった文化人

 日銀下関支店長 岩下直行

【現在のお札に登場する人物】
現在、日本で使われているお札のほとんどは、2004年、今から7年前に発行されたものである。一万円札には福沢諭吉、五千円札には樋口一葉、千円札には野口英世の肖像が描かれている。この3人は、もちろん日本を代表する歴史上の人物なのだが、幾つかの共通点がある。

そのひとつは、明治時代を中心に活躍した人物ということだ。明治時代は、政治体制が転換しただけでなく、社会風俗や人々の考え方が大きく変わり、現代日本の基礎が形作られた時代である。そういう時代に活躍した偉人が、お札の肖像となっている。お札を作る側にとってありがたいのは、明治時代以降の人物であれば、写真が残っているということだ。江戸時代中期以前だと、歴史上いかに重要な人物であっても写真が残っていない。お札に描く肖像は、できるだけ写実的であることが望ましく、写真が残っていることは大切なのだ。

この3人のもうひとつの共通点は、全員が「文化人」だったということだ。福沢諭吉は慶應義塾を創立した思想家・教育者で、たくさんの本を書き、明治以降の日本に大きな影響を与えた。樋口一葉は女流作家、野口英世は細菌学者で、いずれも立派な書物、小説や研究論文を残し、日本の文化を高めた人たちである。

【肖像が利用される理由】
ある調査によると、お札を発行する国175カ国のうち129カ国、73%の国が、お札に人物の肖像を使っているそうだ。肖像を利用するのは、大きく分けて二つの理由がある。

第一の理由は、偽造防止である。人間は人の顔を見分けるのに慣れているので、写実的な肖像が描かれていると、そのデザインを記憶しやすい。万一偽札が作られても、人物の肖像がずれたりぼやけたりしていれば違和感を持つので、偽造防止の効果が期待できる。

第二の理由は、人々に親近感を持ってもらうためだ。お札は単にモノを買うときに使う道具だから、偽造防止さえ万全であれば、単純な模様が描かれた紙であっても役には立つが、それでは味気なくて親しみを感じない。お金は、ややもすると冷たい印象を与えるものだから、せめて印刷される対象は少しでも親しみやすいものにしようということで、人物の肖像が採用されているのだろう。

【お札の肖像を選ぶ基準】
お札に人物の肖像を利用するのは良いとして、なぜもっと良く知られた人物を使わないのだろうか。多くの人が親しみを感じるというなら、現役のスポーツ選手やアイドル・タレントでも良いだろうし、現役の政治家であれば知名度は高い。しかし、そのような人物をお札に採用する例は、国内外ともにほとんどない。

お札の肖像は、現役の国家元首などが登場するケースを除いては、既に亡くなった人物を採用することが通例だ。これは、どんな人物でも生きているうちはその評価が定まらないという問題があるためだろう。ある人物が、死後かなりの時間が経ってその評価が定まり、なお国民的な人気が高いようであれば、お札の肖像の候補になりうる。その場合、過去の時代の偉人と比較され、選択されることになる。その時々の人気、流行よりも、もっと長い、歴史的な視点でみた人物の評価が大切になるのである。

【文化人が採用された経緯】
実は、現在のように文化人がお札に登場するようになるのは、割と最近のことなのだ。これまで日本銀行券の肖像となった歴史上の人物は16人いるが、このうち1984年よりも前に登場した11人は、いずれも政治家や国の指導者に当たる人物であった。

話は明治時代の初めにさかのぼる。明治政府は、新たに発行することになった日本銀行券に描く肖像に誰を選ぶべきかを検討し、聖徳太子、菅原道真、藤原鎌足など、平安時代以前の偉人7人を選出した。いずれも、現在でいえば政治家や国家の指導者に当たる人物である。このリストは1887年に閣議決定され、以後、そのリストに沿った人選でお札の肖像が選ばれていった。

時代が下り、戦後になると、明治時代に活躍した政治家、例えば伊藤博文や板垣退助が採用されるようになったが、やはり政治家の肖像に限られていた。つまり、1887年の閣議決定以降、約百年間にわたり、日本のお札には政治家の肖像が描かれ続けたのである。

その慣習が破られたのが、1984年であった。福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石の3人を描いたお札が発行され、初めて文化人がお札に登場したのである。現在流通しているお札は、2004年に発行された、2回目の文化人シリーズに当たる。

政治家や国の指導者は、戦乱が起き、国の統治が乱れた時に、大きな役割を果たす。明治時代に大きな政治体制の変革を遂げた日本では、国内での勢力争いに勝ち、国を束ね、リーダーとなった人物に対する評価がとても高かったのだろう。ところが、戦後、日本の政治が安定し、経済成長を経て国民が豊かになると、自らが新しいものを作り出す独創性にこそ価値がある、という見方が強まり、お札に文化人の肖像が採用されるようになった。その意味では、文化人のお札は、日本が平和で豊かになった象徴と言えるだろう。

(2011.1.5日 山口新聞掲載)

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