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ナゾと推論40 巌流島二島説

 日銀下関支店長 岩下直行

来年(2012年)は宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘してから400年になるため、下関ではさまざまな観光イベントが企画されている。関門海峡に浮かぶ巌流島へは、唐戸桟橋から観光船に乗ればわずか3分で着く。島は無人島で観光施設や売店はないが、小高い丘の上に武蔵と小次郎の銅像が置かれており、多くの観光客が訪れる人気スポットだ。地元では身近すぎる存在のため話題に上ることも少ないが、巌流島の全国的な知名度は抜群である。

巌流島というのは通称で、正式な地名表記は船島(舟島)という。巌流とは佐々木小次郎が興した剣術の流派の名前である。この島は元々は舟島と呼ばれていたが、この島で決闘に敗れて命を落とした小次郎にちなんで巌流島と呼ばれるようになったと、武蔵の業績を伝える北九州市手向山(たむけやま)山頂の小倉碑文にも書かれている。

巌流島のナゾは、武蔵と小次郎が島のどこで決闘したのかということだ。映画やドラマでは、両者は島の砂浜で対決することになっている。それもあって、現在の島の東岸には、護岸に囲まれた入江に人工の砂浜が作られている。しかし、決闘が行われた江戸時代初期には、島の周囲は関門海峡の速い潮流に洗われた岩場で、剣術の試合ができるような砂浜はなかったらしい。江戸時代の古地図や風景画に描かれた巌流島(舟島)は、どの絵をみても切り立った岩礁に松が生い茂っていて、決闘場に指定するのにふさわしい場所とは思えない。

このナゾを解明したのが郷土史家の澤忠宏氏である。氏は、「巌流島二島説」を唱えた。それによると、武蔵と小次郎が戦ったのは、当時舟島と呼ばれていた岩礁の島ではなく、そのすぐ西南側にあった砂州であったという。その砂州は、普段は海面下に沈んでいるが干潮の時間になると出現する「浮き瀬」であり、剣術の試合をするのに適した平坦な砂地であったらしい。巌流島の決闘が行われたのが1612年の4月13日(旧暦)だったとすれば、満月も近く潮の干満の差も大きかったはずだから、十分に広い砂州が出現していたことだろう。この砂州こそが、小次郎が敗死し、後に巌流島と呼ばれた島だったのだ。

つまり、切り立った岩礁の舟島と、平坦な砂地の巌流島というふたつの島があったことになる。この二島の峻別を明記している古書もあるが、両者を混同している資料も少なくない。小倉碑文の記述も、二島の混同によるものと考えれば納得できる。

大正6年に始まった工事で、舟島南西側の海面は埋め立てられ、この二島は地続きとなった。だから現在では、この島を巌流島と呼び、決闘の地と説明することは正当である。ただし、実際に決闘が行われたのは、観光客が訪れる人工砂浜の周辺ではなく、埋め立てにより拡張された島の西岸、現在造船所の資材置き場となっている辺りと考えられる。

(2011.6.29日 山口新聞掲載)

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