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下関三田会 交流会における講演

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下関三田会 交流会における講演

「山口県経済と下関の将来」

日本銀行 下関支店長 岩下直行

Ⅰ.塾歌に詠われた福沢先生の経済学講義

テキスト ボックス:  慶應義塾塾歌  富田正文作詩

  見よ 風に鳴るわが旗を
  新潮寄するあかつきの
  嵐の中にはためきて
  文化の護りたからかに
  貫き樹てし誇りあり
  樹てんかな この旗を
  強く雄々しく樹てんかな
  あゝわが義塾
    慶應 慶應 慶應

私が三田会に参加する楽しみのひとつは、諸先輩方や塾を愛する皆さんと一緒に塾歌を歌えることです。富田正文作詩による風格のある文語調の歌詞は、昭和15年に書かれたとは思えない程、今でも分かりやすく、心をこめて歌うことができます。その塾歌の一番の歌詞に、「文化の護りたからかに、貫き樹てし誇りあり」という一節があります。その誇りが、「嵐の中にはためくわが旗」に存するというのです。普段、歌っているときは、この「わが旗」とは塾旗(三色旗)のことだろうと何となく思って歌っている方が多いと思います。もちろんそういう解釈でも良いのですが、しかし、この歌詞は福翁自伝の注釈を書いた富田正文が、推敲に推敲を重ねて作ったものなのですから、福沢先生や慶応義塾の歴史に題材をとったものと考えるのが自然でしょう。

テキスト ボックス:  
「福澤諭吉ウェーランド講述の図」
   (画 安田靫彦(ゆきひこ))

そういう目で福翁自伝を読み直すと、該当する部分が目にとまります。時は慶応4年、1868年。福沢先生が塾を鉄砲洲から芝・新銭座に移し、「慶応義塾」と名付けた頃のことです。4月には江戸城が無血開城し、江戸の街は戦火を逃れましたが、幕府軍の一部が彰義隊と名乗って上野の山に立てこもり、5月15日に官軍との間で戦火を交えました。このとき、福沢先生は、慶応義塾の塾生たちの前で、普段通り経済学の講義を行ったのです。その時の様子を想像して描いた絵が、慶応義塾に所蔵されています。背景に戦場からたなびく黒い煙が流れる中、福沢先生が堂々と英書を講述されている姿が描かれているのが分かります。

福翁自伝にはこうあります。かつて、ナポレオンによってオランダが一時征服された時も、長崎の出島では一日もオランダ国旗が降ろされたことがなかったと。オランダはフランスに併合されてしまったが、全世界に一か所だけ、オランダ国旗が翩翻(へんぽん)とはためく場所があったことは、オランダという国がなくなっていないことの証だったのです。そして、幕末の戦火と混乱の中においても、学問の旗を降ろすことなく講義を続けた慶応義塾は、まるでその時の長崎の出島のようであったというのです。

つまり、「嵐の中にはためくわが旗」とは、長崎の出島に翻(ひるがえ)るオランダ国旗に着想を得て書かれた言葉であり、それは慶応義塾が幕末の混乱や戊辰戦争という厳しい環境の中でも学問を継続してきたこと、つまり「文化の護り」という役割を貫いたことを象徴するものだと解釈できるのです。

テキスト ボックス:  
Francis Wayland
(1796-1865)
 
The Elements of Political Economy

この慶応4年5月15日に福沢先生が講義されていた経済学の教科書は、フランシス・ウェーランド(Francis Wayland、1796-1865)のThe Elements of Political Economyです。経済学部ご卒業の方であれば良くお分かりになると思うのですが、この本の筆者のウェーランドは、別に高名な経済学者ではありません。アイヴィー・リーグの一校、ブラウン大学の学長をされた牧師でした。とはいえ、彼が著した経済学の教科書は当時の米国で幅広く読まれていたため、福沢先生も洋行の際に買い求め、慶応義塾での講義に使われたのです。現在では、インターネットにこの教科書の全文が公開されており、誰でも読むことができます。その中身は、ジャン=バティスト・セイ(1767-1832)の影響が強いと評されています。

セイは、「供給はそれ自身の需要を創造する」という「セイの法則」で有名な19世紀フランスの経済学者ですが、この主張は、現在の経済学では、「工業化が十分に進んでおらず、常に潜在的な需要超過状態にある経済においては、経済成長は供給の増加によってもたらされる」と解釈されています。

この「法則」が20世紀の経済では成立しなくなっていることを指摘したのがジョン・メイナード・ケインズです。1920年代の大恐慌の分析から、経済の低迷は需要の不足によってもたらされるという「有効需要の原理」を唱え、それはその後の経済学の基本となりました。

実際、2008年に発生したリーマンショックによって、世界は深刻な不況に突入した訳ですが、これは明らかに、供給能力は十分にあるのに、需要が不足して作っても売れないので、経済が低迷している状況です。このため、かつてケインズが唱えた有効需要を作り出すための政策を各国が採用し、大規模な景気刺激策が実施されたことにより、世界経済は漸く正常化されつつあります。ただ、その結果、わが国を含む多くの国々が巨額の財政赤字を抱えるに至り、最近注目を集めているギリシアの財政問題をはじめとして、また別の経済問題を作り出しています。

福沢先生の時代から、世界経済、日本経済は大きく進化し、それに合わせて経済学も進歩しました。しかしなお、経済学や、それに基づく経済政策で分析・対処できる領域は限られており、我々は日々、様々な経済問題に頭を悩ませています。とはいえ、我々は、福沢先生の教えを受け継ぐ立場にあるわけですから、「文化の護り」としての旗を降ろすわけには参りません。そうした思いを胸に、私も日々、学問としての誠実さを心がけつつ、塾で教えていただいた経済学をツールとして使って、山口県経済の分析を続けているところです。

Ⅱ.持ち直しつつある山口県経済

以上、前置きが長くなりましたが、本題である山口県と下関の経済の話に入りましょう。

私ども日銀支店における産業調査は、比較的短期間の循環的な経済変動をとらえるために行われることが多く、毎月発行している「山口県金融経済情勢」も、県内の様々な経済指標を1か月単位で分析しています。ただ時には、そうした短期的な分析だけではなく、経済全体の構造によって規定される、より長期的な変動についても考える必要があります。そこで、本日は、足元の山口県の経済指標に表れている短期的な経済の流れについてご説明した上で、構造的な問題について、主として県内外の都市とこの下関市とを比較しながら、簡単な考察を加えてみたいと思います。

現在、各種統計指標に表れている動きを見る限り、山口県経済は、全体として、今回の景気後退局面から比較的早期に持ち直しに転じ、改善傾向の動きを辿っているものと判断できます。生産や輸出は、素材産業を中心に操業度が持ち直しており、まだリーマンショック前の水準を越えるまでには至っていないものの、他の都道府県に先駆けて製造業の業況は回復してきています。個人消費は、政策支援を受けた耐久消費財を中心に、全国の指標よりも高い伸び率が続いています。遅行指標である雇用も、漸く底を打ったように見受けられます。今後、中国・韓国などの東アジアを中心に、世界経済が順調に発展していくならば、地理的にアジアに近い山口県経済も、遠からず本格的な回復局面に入っていくだろうと期待しています。

ただ、このようにお話すると、「私たちの実感と合いません」とおっしゃる方々が出てこられます。多分、この席にいらっしゃるかなりの方々も、「持ち直しという実感はない」と思われているのではないでしょうか。別に、皆さんに明るくなってもらおうと無理して明るく語っている訳ではなくて、冷静に経済指標を分析しているだけなのですが、しかし、そのように感じられる方が多いのは、以上の分析が主として経済の循環的な側面を分析の対象としており、構造的な問題にスポットを当てていないからです。

山口県や下関市に限らず、わが国の地方都市はどこでも、たとえば人口構成の高齢化とか、人口減少とか、あるいは駅前商店街の不振とか、様々な構造的な問題を抱えています。これはもう何年も同じ傾向が続いているので、リーマンショックから回復したかどうかという議論をするときにはあえて分析の対象とはしません。しかし、皆さんの生活の実感には、ジワジワと効いてくるものなのです。年配の方とお話すると、「昭和40年代の下関は活気があった」とか「商店街や歓楽街も賑わっていた」とおっしゃる方が多いのですが、そういう議論においては、リーマンショックもバブル崩壊もあまり関係なくて、もっぱら構造的な問題が重要になります。そこで、最大の構造問題である人口減少にスポットを当てて、下関の抱える課題についてお話したいと思います。

Ⅲ.下関の抱える課題 ―人口減少にどう向き合うか

下関の抱える最大の構造問題は人口減少です。過去30年間で人口減少率は実15%を超えています。これは、人口30万人前後の地方都市の中でもかなり深い落ち込みで、これに匹敵するのは、長崎、函館、釧路程度です。

もちろん、規模の小さな市町村を含めれば、もっと人口が減少している「過疎地」は沢山あります。たとえば、山口県内の市町村では、上関町の人口が30年間でほぼ半減しており、最大の減少率となっています。しかし、こうした「過疎地」問題は以前から見られていた現象で、当の過疎地では、それに対処する道をずっと模索してきました。決して楽な道ではないものの、人口減少を与件として対処することが、いわば当然となっています。

これに対して、下関が直面している問題はより切実でしょう。下関のような、かつて人口30万人を超えた大都会が、大規模な人口減少に襲われるのは、実は全国的に見ても比較的新しい現象だからです。

なぜ下関の人口は減少しているのでしょうか。もちろん、かつての基幹産業であった漁業や造船業が産業の構造変化で規模を縮小していることや、大手企業や官庁の出先機関の撤退が相次いだことは、下関市内における就業機会を奪い、雇用者とその家族の転出を増やす原因となりました。

これに加えて、下関と同様に人口の減少している地方都市の多くが港町であることに着目すると、共通する要因が見えてきます。かつて、港町は、国内外との貨物輸送や人の移動の拠点として活用され、それに付随する旅客・貨物輸送、倉庫業や荷役作業などの雇用を作り出す場所でもありました。しかし、国内輸送の多くがトラックなどの陸上輸送手段に移行し、かつ、複雑な地形で渋滞が多く交通の便の悪い港町を避けて、交通の便の良い高速道路沿いの平地に物流ターミナルが作られたことや、旅客が航空機に奪われたことなどにより、長い目で見て港町が雇用を生み出す力が落ちているのでないかと思われます。地形的に坂も多く不便な土地に、無理して多くの人々が暮らしていましたので、地価も高かったのですが、雇用吸収力が落ちてくれば無理にそのような都市に住む必要はないわけで、相対的に開発が容易な、平地にある都市に人々が移り住むことになるのは、仕方のないことなのかも知れません。

実は、他の都市も、合併で大きくなっているだけで、県全体としての人口は増えていない先が多いのです。ただ、今後、地方分権がより進むことや、将来の道州制を見据えれば、地方自治体の規模をある程度以上に保つことは、行政の効率化という観点からも強く要請されるところです。この点、例えば広島市や岡山市は、広域合併を繰り返して規模を拡大し、県内人口の4割を占める都市となることで、次世代への生き残りを図っています。全国的にも、県内にある程度の広さの平地があり、そこに県庁所在地があれば、その都市が合併により拡大する、という一般的な傾向があるようです。これに対し、山がちで狭隘な地形が多い山口県では、そのような中心都市が存在せず、人口の集中が進んでいません。下関市も、一市四町の合併までが限界でしょう。山口県の中では、山口市の人口は若干増加していますが、元々県庁所在地としては特に人口の少ない都市でしたし、地形的な制約もあって、他県の中心都市に比べると規模の拡大には限界があります。この結果、山口県から、福岡県や広島県への人口流出が続いている状態にあります。

人口は経済の最も基本的な構成要素です。人口が減少して経済が豊かになった例はあまりありません。市町村別の経済活動を幾つかの指標で見てみても、人口減が経済成長を損なうものであることは明らかです。例えば、下関市の一人当たりの名目県民総生産はほぼ横ばいですが、人口減の影響により、市全体の経済規模はここ10年間で明らかに減少しています。多くの経済活動は、一定の固定費を必要とするので、頭数が減れば固定費負担が重くなり、効率性が落ちることは仕方のないことです。

暗いことばかり申し上げましたが、以上のような経済合理性から人口が減少しているのだとすると、これを増加させることは難しいと言わざるを得ません。事実に基づいた分析と、対策の検討が何よりも必要なところです。だとすると、都市部において、人口減少を前提とした対応をするという、日本ではまだあまり見られていない対策が必要になります。これはある意味で全国に先駆けた挑戦であり、そのようなアプローチで戦略を組み立てていくことが、ひとつのビジネスチャンスを作り出すことになるだろうと思います。

下関には、先人たちから受け継いだ様々な財産があります。全国区のブランドであるフグや、歴史の町としての様々な名所旧跡など、観光資源も溢れています。人口が減少すると「住みやすさ」が向上する部分もあります。そして、今や世界の成長センターとなっている中国、韓国などの東アジア地域との距離が近く、様々な形で密接な絆で結ばれていることも強みです。冷徹な現状判断を踏まえた上で、適切な対応策を検討していくことができれば、先人たちの築いた財産を、今後の発展に繋げていくことができると思います。

下関が、人口減少にしっかりと向き合い、適切な対応を進めることで、更に豊かな将来を築いていくことを祈念したいと思います。長い歴史の中で、幾多の苦難を乗り越えてきた下関であれば、それは十分に可能なことと確信しております。

御清聴をありがとうございました。

以 上